2025.06.10|会長ブログ,日々のこと

落語とラジオと私🍵

 

こんにちは!本多建設の本多和彦です。

 

いつの頃から落語を聴くようになったんだろうと思い返してみました。というのも、私の部屋の本棚のひとつは落語の本とCDとそれに浪花節のCDでいっぱいになっているからす。

 

あまり記憶にはないのですが、私が小学生の頃(昭和30年~36年)は家にテレビはなく、ラジオが一台あって、夜になると演芸番組の落語、漫才、浪花節などを聞いていました。

当時はNHKの第一と第二放送しかなくて、ニュースなどは聞いてもわかりませんから、特に熱心に聞いていたのが演芸、相撲、野球、日曜日ののど自慢大会などではなかったでしょうか。

 

一人息子である私は、夜は祖母と二人だけの夕食が常日頃の習慣で、食事が終わると何もすることがないので、祖母と一緒に落語、漫才、浪花節をラジオから聞いていました。

兄弟でもいれば、兄や弟との会話が主となり、遊んだり、喧嘩したりで過ごしたことでしょうが、ひとりでは本などを読むか、ラジオを聴くことしか時間の潰しようがありません。

 

中学も後半になると、我が家にもテレビが入り、夢中で見ていました。また友達と時間を過ごすことが多くなり、次第にラジオを聞くこともなくなりました。

大学に入り、東京でアパートに一人暮らしを始めた頃から、部屋にはテレビはなくて、ラジオがあるだけで、ふたたび演芸の世界に戻って、さらに落語の世界に埋没していったように思います。

 

ただ残念なことに、当時は寄席に一人で行くことができず、年に一度くらい、私の従弟と一緒に行く以外、寄席通いをしなかったのが悔やまれます。

あの時通っていれば全盛期の古今亭志ん生、三遊亭圓生、林家正蔵(彦六)、なんかを生で見られ聴きもできたでしょうに、ラジオだけで聴いていたことがもったいなかったなあと思います。

 

その代わり、名人落語家の本は大学時代から買い漁っていましたから、古い落語家の本は今でも私の宝物です。

当時CDやDVDはなくカセットテープでしたが、デッキが買えなくて、やはり頼るのはラジオだけで、アパート生活は本を読むかラジオを聴くかの実にシンプル極まる生活でした。

 

落語は古典落語と新作落語があります、新作落語の筆頭は今は亡き、初代林家三平でしょう。最初からしまいまで笑いっぱなしです。その芸の力たるや類をみません。

古典でいえばやっぱり古今亭志ん生ですね。古典落語は同じ噺を様々な噺家がするわけですが、力量にによっては、うまいなあ~と聞き手を唸らせる噺家や途中で眠くなるような噺家もあり、前座、二つ目、真打と実力が上がって、真打が最高峰となりますが、人それぞれで好き嫌いがあり、うまいと好きとは違いますから、その人の感性と噺家の個性がぴったり合ったりすることが大事だと思います。

 

だから笑いはその人その人の感性からきますので、名人だからうまいと思わなくても構わないと思います。

私も実力派といわれている落語家が必ずしもうまいとも思わないし、聞いていてその噺家の世界にぐんぐんと引き付けられるようであれば、別に真打でなくとも、好きになってしまいます。そしてその噺家の将来が楽しみにもなってきます。

 

志ん生の芸の可笑しみは、努力の末の実力というよりも、志ん生の生きざまがすで落語になっているということで、これは天性のものなんでしょうね。

 

こんな話があります。

いかにも志ん生の面目躍如といったところです。TBSの社長に招待された噺家、志ん生、文楽、圓生、小さん、桃太郎と物書きの先生5人が食事をしていた時…。

TBS社長:「物書きの先生に落語をこしらえて、書いてもらって、師匠にやってもらいたいということで集まってもらった。」

志ん生:「冗談言っちゃあいけねえ」

「落語はそんなに簡単にかけるもんじゃねえ、落語っていうのはむずかしんだ。」

そこで志ん生、小噺をやった。

「ドロボウが入ってね、そこの亭主とくんずほぐれつやって、それでやっとのことでドロボウを組み伏せて、はあはあ息しながら、おいっ、かかあ、水一杯もってこい。ったら、ドロボウが下からおかみさん、あたしにも。」

「これが落語なんだ、こんなもの書けねえんだ。」物書き先生みんな黙っちゃった。

 

志ん生の独特の間や可笑しみというのに憧れて落語の世界をもっと知りたくて、今では私のライフワークとなってしまいました。

さらには芸能の世界というものにこれからもどっぷりつかりながら、浮世を楽しく過ごしてゆきたいもんです。

 

ペン
この記事を書いたのは私です。
本多和彦会長